昭和四十九年五月六日 朝の御理解


御理解第七十三節 「変人になれ、変人にならぬと信心はできぬ。変人とは直いことぞ」

 直いと言うことは、真っ直い、まともな生き方と言う意味と思います。直い。直い生き方の人を変人と言わねばならぬ程に、世の中が乱れておるということが言えます。真の信心をさしてもらい。それには先ず、真の人にならねばならぬ。その真の人というのは、見方を変えると変人ということになる。あっちは変人だからと言われる程しにです。例えば直いという人が少ないと。なら信心しておっても、その、いわゆる真の信心を目指す人が少ない。本気で、なら真の人にならせてもらおうというような願いを立てる人がない。たくさんお参りをしておっても、信者はたくさんあっても、なかなかここに言われる変人と言われるような人が少ない。問題は、本当の生き方、本当の人。真の信心、真の人。真の人を目指さずしては、真の信心が判るはずもない。これはね、理屈の上ではどんなに判りましても。真の人を目指せば真の信心が判り、真の信心を目指せば真の人にならなければおられない。そういう働きがある。
 昨夜は壮年部会でしたが、久留米の喜代司さんがこういう事を云うとりましたですね。本当にこの成り行きを大切にする。成り行きを尊ぶ。そういう生き方が本当の生き方だと。けれども、そこには本当の成り行きを大切にして行けば、おかげが受けられるんだという思いがある。おかげを受けなければならんから、成り行きを大切にして行くんだと。だから、私が最近思うことは、成り行きを大切にするということと同時に、それ以前のもの、それは自分の心の中の、心の成り行きを願うことだ。自分の心の成り行きを大切にすることだ。起きてくる、例えば事柄、もうその時点でです。成り行きを大事に心を大事にして行きよらないと、成り行きを大事にし得ないんだと。というような意味のことを言ってます。
 確かに、言うなら変人ですねこの人は。ですからもう、いっつもその、より本当のことを求めておるという感じがします。だから、おかげを受けるというおかげは要らんのだと、真の人になれば。おかげは要らんのだ、真の信心が判ればと。もうこの一本で行かなければ嘘だという意味のことを力説してます。もう、これだったら間違いないおかげが受けられるでしょうね。けれども、そのおかげは要らんとこう言うんです。ところが、まあ、要らんと言うても、そういうことになってくりゃ付いて来るけれども。というふうに言ってます。でなかったらね、あの世に何を持って行くかとこう云うんです。正面な、本当の心というものを、魂をあちらに持って行く以外には何も持って行かれんのだと。その魂が、ただ、おかげを頂かんならんから、ああするこうするというような汚い心では、あの世には持って行けない。持って行っても恐ろしい。あれが欲しい、これが欲しい。与えられれば良いだろうけれども、与えられなかったら悲しいんだと。だからおかげとは、もう完全に切り替えにゃならない。とにかく問題は、自分の心の成り行き、それを大事にしていないと、まあ心が、それこそコロコロと変わるように、もうとんでもないことを心の中に感じたり、思うたりするのだから。
 私はだから、今日はその変人とは、直いこととは、もう本当に真の信心が判りたい、真の人になりたいということだというふうに。私もその喜代司さんの話しを聞きながら、本当にそうどころではないなと言うて、まあ私の信心の、最近の信心を話したんですけれども。そのことにえらい共鳴をしておりました。けれど、信心はそこのところを目指さなければ、昨日私が言うたこともわからなかっただろうと、こう思った。というのは、最近わたしが感ずることはです。私が感ずることが、そのまま神様が感じよりなさることだなあと思う節があることです。こげなこと思いよると、以前は思いよったけれども、そのこげなことそのことが神様が思いござるとだなということ。ということはです。もういよいよ真の人を目指した人の心からしか生まれて来ないんだと。もうそこには自由無碍の世界がある。自分の言うておること、自分の行うておることは、神様が言いござるのだ、神様が行いござるのだと、そこへ生神を発見する。どこにお粗末が、御無礼があるやら分からんのですけれども、そういうものが段々すきっとして来た。
 そこで昨日は、結局親先生が言われることは、親先生が人間心を使いござると思うことが、実は人間心じゃないから大事にしなければいけないんだと。先生が見す見す白を赤と言われてもです。それは赤として頂かなければならんのだと。それを赤として頂くところに、成程赤だったという奇跡も生まれるのだという意味のことを、これは西岡先生がそのことを話しておられました。どうも私共のようにあまり側にこうして接近し過ぎると、これは親先生の信心心、これは人間心というような面にやはり触れることがある。触れることがあるけれどもです。なるほど冗談にでも言わなさったことが実際に現れて来るとです。これは親先生が言いよりなさることは全てが神様が言いござるとじゃ、神様が思いござるとだなということをその節々にです、感じる。それは私自身も最近それを非常に濃厚に感じます。だから、言うならば心の呵責などというものが段々無くなってくるですね。信心しよって自分はこげな事を思いよる。「ああ、いけん、いけん」と言うて、頭を打ち振ってそこから逃れようとするようなものが、段々無くなってきた。
 喜代司さんの場合はそこんところをです。ああ、こんなことを思いよる、こんなことを自分がしよる。こういうことではいよいよ、なら成り行きが、どういう成り行きが起こって参りましてもです。こういう心の状態ではその成り行きを、尊びも、有り難く受けることも出来ないと、その成り行きを大事にさせて頂く下心というものを先ずは作っていくんだと。それにはおかげのことなんか考えよったんじゃ出来ることじゃない。信心、それはもうおかげ頂くけん信心しよると。これはもう言いもする、思いもしております。成程毎日日参をしておる人が一日御無礼をもうそこには、ああやっぱ参りゃ参るがとあるというものを感じよる。やっぱお参りせにゃいけんと思いよる。それをおかげにすぐ直結するから。だから、それではいつも目の前に何かこう餌を置かれて、その餌に向かって一生懸命進んで行きよるようなものです。
 それは教祖様御自身にとってもです、例えば天地書附なんかを頂いて、おかげは和賀心にあるとおっしゃるから、和賀心にならにゃというように。だから、やはりそういう一つのまあおかげを餌というような言葉では当たりませんでしょうけれどもです。おかげを頂かんならんから和賀心になる。和賀心におかげがあるとおっしゃるのだから。それではです。だから変人ということではない。和賀心になるということが有難い。そこんところの私は信心、言うなら、真の信心とは御利益を頂くということではなくて、真の本当の信心を頂く。人間の本当の生き方を体得させてもらう。それには魂を清めなければ、また、改まっていかなければ真の人ということにはなれない。
 その清めたり、改まったりしたその心こそあの世に持って行けるのだから、その魂がただおかげで穢れておってはならないと言うのである。それでもおかげが頂かれる。これは穢れたおかげじゃないことですね。おかげを受けるから和賀心になると。心が和賀心になるからおかげがついて来る。ということにならなければならん。そういう生き方の人をです、変人と云うのではないだろうか。おかげ頂くから信心しよると言うのはね、一生懸命働きゃ金儲けをするというのと同じことです。金儲け、それだけ金を取れるなら取れると言ったのと同じことです。そこには、言うならば、お金が多かろうが少なかろうが、いや、それはただ働のようなことであろうがです。それを神様の御用として頂くのだからと言う頂き方。そういう頂き方が、いわゆる真の人の考えることであり、真の信心だと言うことになる。言うならば、無条件に真の信心を求めるということにならなければならない。
 そういう人をです。やはり、「あっちは変人じゃなあ」とやっぱり信心しよる者でも言うでしょう。だから変人とは直いことと言うことは、そんなら信心しておっても、なら変人になれとおっしゃるが、変人はもう本当に少ないということです。本当の生き方をする人を変人と言わねばならない程、これはもう信心の無い者には尚更のことでしょうけれども、信心を頂いておってもです。変人と言う信心を頂かねば。言うならば、真の人を目指さしてもらうということは、人の中の人ということになるのじゃないでしょうか。その人の中の人を目指す人を、「あの人はなかなか変人じゃ、されること言われることが違う。普通の者じゃ真似が出来ん」と、そういう本当の生き方をする人をです。変人と、変わった信心をする。変わった生き方をする。とこう言うことになる。変人、まともな生き方をしておる者を変人と言わねばならないほどに、変人は少ないということであります。
 おかげを頂くからお参りする。おかげを頂くからお話も頂く。おかげを頂くから和賀心になることに精進をするんだという間は、そのおかげがね、言うならばその心が、せっかくの心が汚い物で穢れるような感じがするというところまで心を高めて行っておる。そして、なら要らんと言うてもその和賀心にはおかげはついて来るんだと。その辺のところの心の一つの切り替えるきっかけと言ったようなものがね、何か願って、そういう信心をやはり願っておかなければ、結局御利益信心に堕してしまうという気が致します。
 教祖様でも「おかげは和賀心にある」と仰るのだから、おかげを頂くためには、本気で一つ和賀心にならなければということを一生懸命精進する。精進して行きよるうちにです。これは、和賀心になられたということだけでも有難いんだから、おかげというものとは結び付けてはいけないというようなことがすっきりと判って来るんではないでしょうかね。
 昨日私、喜代司さんの話しを聞きながらそういうことを感じました。そして、私自身が歩いて来た道もです。もう無条件の、やはり信心をさして頂いたように思うのです。そこに最近私が感ずる、思うておることが、行のうておることが、そのまま神様の動きというか、神様が思いござるとじゃなあ、神様が行いござるとじゃなあとこう、思えるような気持ちが段々、信心の内容に深くなって来た。もっともっと、これは高められなければならないことは勿論です。いよいよお互い変人を目指しての信心にならせて頂かねば駄目ですよね。
どうぞ。